今日は「表現」について。
サブタイトルは「理論と感情はどちらが人を動かす要素か」ということで、人間を感動させたり動かしたりするのには何が必要で重要なのかということを綴っていこうと思う。
今回は自分がやっている音楽という表現の話だけにはとどまらない。
ビジネスにおけるプレゼン、誰かと議論するとき、恋愛におけるアプローチなど、様々なところで共通する話題だと思う。
自分の実体験や書籍からの情報を詰め込んだ記事だと思うので、これを読んだあなたに少しでも「伝われば」と祈っている。
※今回は絵画のような視覚的表現については触れていないのでご了承ください。
※結論部分だけ読みたい方は「5.まとめ」のみお読み下さい。
◆目次◆
1.人を動かすこと
2.理論の脆弱性
3.「他人は変えられない」という言葉は本当か?
4.感情を動かすには
5.まとめ
6.音楽において感動を生むには
表現
① 内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。また、その表れた形である表情・身振り・記号・言語など。特に、芸術的形象たる文学作品(詩・小説など)・音楽・絵画・造形など。 「適切な言葉で-する」 「 -力」 「 -方法」
② 外にあらわれること。外にあらわすこと。 〔英語 representation や expression の訳語。ロプシャイト「英華字典」(1866~69年)に display の訳語としてある。また、「哲学字彙」(1881年)に presentation の訳語として「表現力」と載る〕
三省堂 大辞林 第三版より抜粋
1.人を動かすこと
「表現」の辞書的な意味は上の通りで、要は潜在しているものを顕在化することだとも思う。
つまり、表現の始まりは「内=自分の中」からであり、自分の感性や知識、経験が最重要になることは言うまでもない。
歌にしてもプレゼンにしても、表現のアプローチは多種多様である。
そして表現の目的を定めるならば、多くの場合「人の行動を変えたり心を動かしたりすること」がほとんどである。
もっとシンプルに言えば「人を動かす」ことだ。
では、この「人を動かす」ものに必要な要素はなんだろうか?
ここで、サブタイトルにある「理論」と「感情」で考えてみたいと思う。
どちらも表現の手法と言えるだろう。
結論から言えば、俺は「人を動かす」のに必要なのは圧倒的に「感情」であると思う。
なんなら人生で最も重要なものが感情であると考えている。
自分も一端の社会人なので、理論の大切さは嫌というほど学んだ。
話に筋が通っているか、物事の目的は何なのかなどを逐一考える。
とても重要な''スキル''であり、プライベートでも常日頃一人問答をし、自分にとっての結論を繰り出している。
(関連記事:哲学)
しかしどんなに筋が通った話をしても、相手が変わってくれないこともまた日常茶飯事だ。
編み出した理論が甘いと言われればそれまでかもしれないが、そういった時は大抵相手に根幹が伝わっていなかったり、相手が強い信念や考えを持っていたり、そもそも相手が興味を示していない場合である。
これはビジネスだけの話ではない。
人の心や行動を動かすことは難しいことだ。
2.理論の脆弱性
一つ、例を出そうと思う。
ディベートを行ったことがある人はどれくらいいるのだろうか。
厳格で形式張ったディベートを行った人は少数派だろうが、何かしら議論や口論になったりした経験なら誰にでもあると思う。
議論や口論なら第三者による判定もないため、どちらが正しいかを決めることは難しい。
大体は自分の中の納得感や気持ちを確かめる結果で終わると思う。
さて、ではディベートをやってみると、相手の考えを変えることは出来るだろうか?
あなたには、思い当たるような経験があるだろうか?
これは自分の経験でしかないが、ディベートの勝敗が決まったところで自分の考えが変わってしまうということは滅多にない。
負けた側からすれば悔しさだったりを抱え、時に腑に落ちない気持ちでいっぱいになるかもしれない。
オーディエンスがいて、向こうの理論が正しいとなったところで、自分の理論が早々変わるものではないのだ。
(そもそも、オーディエンスが勝敗を決める際には感情へ訴えかけられたかというポイントも重視される)
そう、オーディエンスの気持ちは動かせるかもしれないが、対決状態(=考えを持った者同士の主張)では相手を変えることが難しかったりするのだ。
日本人はディベートが苦手と言われている。
理由は多々あるが、あえて反対意見を想像するのが得意ではないのかもしれない。
また、ディベートにしろ口論にしろ、勝利=論破することが目的になったりするのも問題だ。
上記の通り、論破なんてあまり起こらないものなのだ。
論破出来ることを誇る人がいるが、俺はそれはむなしいだけだと思う。
なんならそれは自分の正しさを他者を使って再確認するというエゴでしかない。
相手を動かせていないなら、論破出来たとしても不毛である。
しかしながら、ディベート的思考はとてもとても大切であると思う。
ディベート的思考・・・これを「捨象」という言葉で捉えたいと思う。
ディベートをして誰に得があるかと言えば、紛れもない自分自身である。
あえて反対意見を見出し、自分の中の理論を確立し、生き方に繋げていく。
まさに哲学者のソクラテスがやっていたようなことであり、弁証法の観点から言えばアンチテーゼがあるから自分の可能性が広がり、それを棄却したとしても、ゼンテーゼという結論を出すことで自己の生き方を強固に出来る。
あらゆる見地から物事の真理を推考することは、人を変えるよりも自分を変えることに意義があるのだ。
3.「他人は変えられない」という言葉は本当か?
「他人は変えられない」という言葉はおそらくアドラー心理学の内容から広まった言葉だと思う。
とても奥深い内容についてなのだが、この言葉だけで捉えれば、俺はNOと言いたい。
アドラー心理学の内容を全否定するつもりはないのだが、どちらかと言えば要約の仕方が悪いのだと思う。
俺もあなたも、人から影響を受けたことはたくさんあるはずだ。
熱弁されて気持ちが動いたことも、些細なことで気持ちが動いたこともあるはずだ。
余談だが、作家の伊坂幸太郎は斉藤和義の「幸福な朝食 退屈な夕食」という楽曲がきっかけで作家を目指すことになったと言われている。
ここまで大きく動かされることは少ないにしても、誰もが音楽のような''些細な''経験に感動することはあるだろう。
アドラーの話で言えば「伊坂さんが元々変わろうという意思を持っていたから」という言い方も出来るだろうが、そうだとしてもきっかけとなっているのだ。
他人のことを変えることは出来るし、他人を動かすことは出来るのだ。
上記楽曲の歌詞も素晴らしくカッコイイが、やはり歌詞の理論から動いたというより、最終的に感情がかき立てられた、というのが大きな原動力になったのではないだろうか。
感情とはいつの時代になろうがどんなにテクノロジーが発達しようが、代替の利かない宝物である。
4.感情を動かすには
さて、では感情そのものを動かすにはどうすれば良いのか?
こればっかりは俺のような人間が体系づけることは出来ないし、他の有名な心理学者にしても具体的な常套手段と必勝パターンを掲げられた人は少ないだろう。
そもそも感情というものに答えを出すことが不毛だとも思うし、興ざめである。
しかし、確かに感情が動くことはあるのだ。
中西健太郎さんの著書『感情を動かす技術』を読んだことがある。
かなりざっくり言ってしまうが、感情を動かすにはこちらのエネルギーが高いことが条件であり、そのエネルギーを伝えるためには①姿勢②声の要素が重要ということが本書の味噌である。
姿勢が悪く声がこもっていたら、そこにエネルギーを感じないため、何を言っても伝わらないということだ。
何かを伝えたいなら活き活きとしている方が伝わるということである。
もう一つの本質を書くならば、感情のゴールと行動のゴールは別であり、それぞれを考えながらプレゼンなり表現しなさいということだ。
何かの商品を買ってもらう目的なら、相手に対する感情のゴールは「良さそうな商品だな/これがあったら便利だな」等思ってもらうことであり、行動のゴールはまさしく購入してもらうことである。
そのように仕向けるために姿勢と声を意識しなさいということだ。
結局のところ、ここで言う「エネルギーの高さ」はやや抽象的であり定義づけることは難しいが、確かに腑に落ちるところがある。
誰かが心から嬉しそうに話せばこちらも嬉しくなる時もあるし、悲惨な事件があって涙を流しながらインタビューを受けているニュースを見れば、関係の無い人のはずなのにこちらまで泣けてきてしまう。
これらを全部を当てはめることには無理があると思うが、感情を動かすにはどうやらエネルギーが必要のようだ。
本書でも触れられていたが、そのエネルギーの源は情報量であり、日々インプットや思考実験を繰り返す必要性が説かれていた。
平たくいえば、人(そしてその感情)を動かすものは、こちらの感受性であるということだ。
そうであれば人を動かすために日々鍛錬を積むことに他ならない。
「悲しみの分だけ優しくなれる」なんて言葉も、自分の気持ちや経験を適切にアウトプット出来るから、そうなれるのではないだろうか。
そう、そうやって初めて、ちゃんと伝わるのだ。
5.まとめ
そろそろまとめに移っていこう。
感情を動かすには、こちらのエネルギーが必要である。
そのエネルギーがどう養われるか、それは自己の感受性を研ぎ澄まし、知恵や経験を養うことに直結する。
この意味で、上記で書いていた捨象が必要になる。
つまり、自分のフィロソフィーを構築することがエネルギーの高さに直結する。
このフィロソフィーを他者に話すだけでは''伝わらない''ことも多い。
姿勢や声によって心証は変わるし、その他に表情なり匂いなりも感情を動かす要素に起因すると思う。
これが表現である。
日本においては恥ずかしがり屋の文化があるからか、姿勢や声といったトレーニングに重きを置くことが少ない。
しかしこれこそが、表現になりうるための条件なのではないだろうか。
そして、ここまで触れてこなかった内容がある。
これは自分が営業の経験を経て言えることだ。
要は、好きにさせてしまえば受け入れてもらいやすいという、元も子もない話だ。
元も子もないけど、これも感情の話で、理論なんかをはね除けてしまう要素なのだ。
新興宗教だって本質はそこなのかもしれない。
だが確かなのは、好きになってもらうには自分がどんな魅力を持っているかの話になるので、自分自身を磨くことは間違いなく表現に繋がるのだ。
「自分を磨く」という言葉・・・
俺は嫌いだから、「自己を確立すること」と言いたいね。
6.音楽において感動を生むには
ジブリ作曲でも有名な久石譲さんは著書『感動はつくれますか?』において次のような一節がある。
—論理や理性がなければ人に受け入れてもらえるようなものはつくれないが、すべてを頭で整理して考えようとしても、人の心を震わせる音楽は出来ない—
ここでも、本記事でずっと書いてきたようなことが書かれているのだ。
ではどうすれば人の心を震わせることが出来るのか?
同書から次の言葉も引用したい。
—想像力の源である感性、その土台になっているのは自分の中の知識や経験の蓄積だ—
作曲に限って言えば「質より量を重視し作ること」を提唱している。
また、別項では「誰しもが完全なオリジナルなことはなく、何かしらの影響を受けた上で自分の個性として構築される」といった旨の内容が書かれている。
「聞いてみて好きじゃない音楽もあるが、それも含めて自分の糧になる」的なことも書かれている。
かのエジソンが「自分の研究に失敗はなく、成功しないことを何度も検証しただけだ」というような名言の本質と似ている。
俺も同感である。
なんならこれも、捨象と近いのではないだろうか?
音楽理論、流行りの曲調、歌詞のイロハ・・・
音楽で感動させる要素はいろいろある。
しかしそれだけでは''伝わらない''こともたくさんあるのだ。
音楽においても声だったり作り手の姿勢だったりは重要だ。
しかし、一言で言うならば、その作り手自身の個性がどれほど説得力を持つかが鍵なのではないだろうか。
人がどんな音楽で心が動くかなんて定義することは出来るはずがない。
でも、売れているもの、上手いものが心を動かせるとは限らない。
まさに表現の本質だ。
俺も作る身として考えるが、器用なことは出来ない。
ならばせめて、自分のエネルギーを詰め込んでやろうと思う。
これこそ表現なのだから。
-今日のおすすめの1曲-
幸福な朝食 退屈な夕食 - 斉藤和義
-コメント-
今日の内容でも出てきた通り、伊坂幸太郎さんが作家を目指すきっかけになった曲である。
これはなんというのだろう、ポエトリーリーディングともラップとも違う。
まさに主張だ。
この曲が収録されているのは「ジレンマ」 というアルバムなのだが、最後の曲にこれを持ってくるのがまたカッコイイ。
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