ネットリテラシー


頭がおかしくなりそうである。

 

 

 

人はそれぞれの思想や考えを自由に持って良いものである。

暴君政治などは過去の産物であり、少しずつ、その兆しは社会にも垣間見える。

時間はかかるし完全になくなるものではないけれど、ハラスメントや体罰、いじめなどが横行する社会はほんの少し緩和されたように思う。

この理由もいろいろあるだろうが、ネットが発達し情報のスピードが速くなり、そして個人からの告発も出来る様になったことは大きな要因だと思う。

要は、良いことも悪いことも暴かれる時代だ。

俺自身も、きっと他の誰かも、子どもの頃から抱いていたような"当たり前の理不尽さ"が、市民権を持ったような感覚も少しはあると思う。

 

一方で、本来取り沙汰とならなかったようなことも注目される機会が増え、毎日何かしらの炎上で忙しい。

炎上というと不祥事や愚行を思い浮かべるが、果たしてかつて抱いていたような不祥事像かと言われれば怪しい。

しかしその真偽がどうかが重要なのではなく、思ったことを自由に言えることが重要なのだ。

これは正しい、これは間違い…そういう観念も終わりつつあると思う。

これは自分が思春期の頃から予想していた未来でもあり、期待もしていた。

考えが至らず、思った未来にはならなかったが。

 

ネットリテラシーという言葉が浸透して久しい。

この言葉の意味は「情報ネットワークを正しく利用出来ること」とされる。

出てきた当初はもっと限定的な意味合いだったように記憶している。

様々な文脈で見ても、「情報が正しいかどうか精査出来る能力」という意味だったように思うが、今はマナーとしてまで扱われるようなことがほとんどだ。

こんなところにも時代の流れを感じる。

 

個人からお手軽に発信出来るようになった時代であり、マイノリティの言葉にも意味を持つ。

その言葉にはパワーがあり、時にマジョリティへと這い上がることさえある。

この"下克上"を狙うような行為が、もはや日常茶飯事になった。

「個の時代」になり、より自由になり、何が正義となりうるか?

時に数という票集めの戦争を見ているような気もする。

もちろん、全部が正義を獲得するための行為だとは思わないが、そのように見えてしまう自分は歪んでいるのかもしれない。

過去の自分が予想していた未来はなく、個人の意見のぶつかり合いになってしまった。

それは当事者でないなら、見ていると疲れるのだ。

 

さて、ここで重要になってくるのは「個人の尊重」だ。

「そういう意見もある、けど自分はこういう意見だ」と、それぞれの違いを認めることとも言える。

(相手の言うことを鵜呑みにすることだけでは尊重とは言えないと思う)

もっと簡単に言えば、最強の真理「人それぞれ」である。

今の時代、この精神を強く持たなければいけないと思う。

しかしどうも、「個の時代」に「個人の尊重」というものが根付いていないように感じる。

ここに誹謗中傷などが関わっていると思う。

難しいのは、何が誹謗中傷なのかということである。

「これは誹謗中傷ではなく、意見です」というのが通るか通らないか、うまく説明することは難しいだろう。

「死ねハゲクズ」とか無関係な人格否定になれば誹謗中傷になるのだろうが、今の限界はここまでなのではないだろうか。

個人に向けて言わずとも、「これは自分の意見です」という形で自由に"感想"を述べることも出来る。

これが個人の尊重の行き着いた形なのだろうか。

自分にはよくわからなくなる。

 

 

そして今、俺もこのようの発信をしている…

正直、違和感があるのだ。

そもそも自分のような存在が音楽で伝え始めたきっかけが、個としての主張にある。

アーティストなんてそんなものだし、誰かの顔色を一々伺ってはいられない。

だがしかし、社会全体が様々なことでぶつかり合っている中で、俺はここにいていいのだろうかとなる。

SNSなんてやめたくなる。ブログもそう。音楽活動も納得して出来ない気がする。

生きることも息苦しく感じてしまう。

そんなときこそ、「勝手にやりなさい」と聞こえてきそうである。

俺は俺の好きなように、勝手にやるさ。

ただ、勝手にしようにも、自分で自分を納得させられないことが一番もどかしいのだ。

自分が最もカルト的な存在だったのだろう。

 

恥を忍んで生きることが出来るなら、どんなに勇敢なのだろう。

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